「山本覚馬の建白(管見)」とその周辺

 

                              戊辰戦争研究会東北支部所属 HN 会津 山川健次郎

はじめに

 NHK大河ドラマ「八重の桜」の放映により、会津にも観光客が大勢来てくださるようになりました。修学旅行も一時激減しましたが、本年は大分回復してきました。先週の八重の桜をご覧になった方は、二本松少年隊の悲話が印象深い場面であったかも知れませんが、私は、覚馬の口述を筆記していた人物である「野沢鶏一」と、覚馬の世話をする少女「小田時榮」について興味を持ち、少し調べてみました。十分に推敲せずにアップするのはどうかと思いましたが、しばらく小論文コ−ナ−にアップしておりませんので、拙文を掲載することにいたしました。事実誤認等があるかも知れません。その時には、ご教示方よろしくお願い申し上げます。

注:文中「小田時栄」を「小田時榮」と記しました。「栄」との文献記載が多いのですが、  「榮」が正しいとのことです。

 

1.山本覚馬の戦線離脱

 薩摩などが「王政復古の大号令」で新政府を宣言すると、1868年(慶応4年)1月、将軍徳川慶喜や会津藩主松平容保らは京都の二条城から大坂城へ退いていた。京都にいた会津藩士も藩主に従い大坂へ下ったが、この頃の山本覚馬は、ほとんど視力を失っていたので、京都に残留し静養して回復に努めていた。

 

2.薩摩藩邸の焼討事件

 薩摩藩邸の焼討事件とは、1868127日、薩摩藩が江戸市中取締の庄内藩屯所を襲撃した為、慶応31225日(1868119日)の江戸の三田にある薩摩藩の江戸藩邸が江戸市中取締の庄内藩らによって襲撃され、砲火により焼失した事件のことである。この事件からの一連の流れが戊辰戦争のきっかけとなった。この事件が大坂に伝わると、「薩摩を討て」との声が沸き上がり、徳川慶喜は、討薩を決して大坂城から旧幕府軍・会津藩・桑名藩などを主力として兵を進めた。

 

3.覚馬捕縛の経緯

 会津藩の進軍を知った覚馬は療養中であったが、会津勢が新政府軍に刃を向ければ逆賊とされる恐れがあり、進軍の中止を進言するために大坂へ向かう。しかし、街道は薩摩兵によって封鎖されており大坂へは行けなかった。覚馬は、会津藩が朝廷に敵意がないことを訴えるために京都へ行こうとした。しかし、途中薩摩兵に捕縛され、京都の薩摩藩邸に幽閉されてしまったのである。

 

4.会津に伝わった覚馬の(誤)訃報

 この件について、会津の山本家には「覚馬が京都の蹴上から大津に向かう途中薩摩軍に捕縛され、京都の四条河原で処刑された」と伝えられていたという。この報を受けた時の山本家のようすが伝えられている。「弟三郎の戦傷死、兄覚馬の訃報に、覚馬の妹、山本八重(子)や覚馬の妻うら(樋口うら)は泣き崩れた。しかし、覚馬の母親山本佐久は、息子の訃報を信じずに凜としていた」という。

 

5.覚馬捕縛時の幸運

 覚馬は、何故処刑されなかったのであろうか。覚馬が長州ではなく、薩摩に捕らえられたことは幸運であったと考えられるのである。なぜならば、「八月十八日の政変」の時に、会津藩と薩摩藩は共闘して長州と戦った事があった。この時に、覚馬の聡明さや銃砲隊の果敢な指揮ぶりが知れ渡っており、薩摩藩には、山本覚馬の才覚と人物を認める者が多かったからである。もし、覚馬が長州勢に捕縛されていたらおそらく、処刑は免れないところであったと思われる。会津藩は、新選組を使って、長州を初めとする討幕派を弾圧しており、「八月十八日の政変」で京都から尊王攘夷派の長州藩勢力を追い出す中心的な役割をしている。仲間を大勢殺害された長州は、会津藩を恨んでいた。事実、捕縛された覚馬は、斬首されそうになったが、覚馬の才能を惜しんだ薩摩藩士によって助けられたのであった。

 

6.覚馬の建白(管見)の概要 

 覚馬は、薩摩藩幽閉時、ほとんど視力を失っていた。眼病のために書物を読むことも、文章を書くことも不可能な状態であった。しかし、覚馬の才能を認める薩摩藩士達に優遇されていたため、紙と筆を得ることができた。覚馬は、覚馬と同じく幽閉されていた野沢鶏一に自分が口述したことを筆記してもらい、「時勢の儀に付き拙見申し上げ候」とし、「山本覚馬建白(管見)」を纏めて、薩摩藩を通じて新政府宛提出した。建白の主な内容は、「政権」「議事院」「建国術」「女学」など23項目に及び「三権分立」「二議院制」「女性の教育」「学校建設」「西暦の採用」などの近代国家としての指針がしたためられているものである。「管見」とは、自分の意見をへりくだって述べるときに用いられる言葉である。以下は、管見記載の全23項目である。

「・政権・議事院・学校・変制・撰吏・国体・建国術・製鉄法・貨幣・衣食・女学・平均法・醸酒法・条約・軍艦国律・港制・救民・髪制・変佛法・商律・時法・暦法・官医」

 この「管見」を覚馬が「野沢鶏一」に筆記させたのは、1868年(慶応4年)5月とされる。『原本』を栗原只一、醍醐忠順(慶応48月)、島津久徴の順に筆・転写したものからなる。和紙仮綴じで縦24cm、横17cm、本文22丁である。表紙に「山本覚馬建白」とあり、裏表紙に「会津藩山本覚馬建白也自栗原只一借得令写了 薩藩江囚中云云 慶応四戊辰年八月十五日 忠順」「右再借写之了 明治二巳巳年六月 久徴」と墨書されている。

このことからこの写本は島津久徴が明治26月に写本したものであることがわかる。

 

7.覚馬の口述した管見を筆記した男「野沢鶏一」

 覚馬の口述を記述した「野沢鶏一(のざわ けいいち)」は、覚馬が京都で開いた蘭学書所の教え子である。鶏一の出身は耶麻郡西会津町で、会津藩士である。「野沢鶏一」は、法律家・弁護士・税関職員・判事・伝記編集者としても名をなした人物で、石川暎作(栄作)の従兄、日本の法整備について多大な貢献をしたとされる人物である。なお、従兄の石川暎作(いしかわ えいさく)も陸奥国河沼郡野沢(現:耶麻郡西会津町)の石川十郎の三子で、横浜の高島学校で英語を学び、慶應義塾に入学、卒業後大蔵省銀行局に入所し翻訳局などに勤務した人物で、病退官の後、田口卯吉主催の『東京経済雑誌』創刊当初から助けて編集にあたり、社説を起草した。その他、後に野口英世の手を手術したことで有名な渡部鼎医師とともに婦人束髪会を組織し、明治女学校設立の功労者となった。編纂者、アダム・ススミスの『富国論』を日本で初めて翻訳出版した近代黎明期日本の教育文化に大きな足跡を残した人物として知られている。また、鶏一は、戊辰戦争後、大赦により覚馬とともに釈放された。覚馬から「見聞」を学ぶように言われ、早速それを実行している。次に「鶏一の略年譜」を記す。

【野沢鶏一 略年譜−抄−】

1866年、渡部思斎が設立した「研幾堂」で学ぶ。

1867年、長崎で医学の勉強を志す。小林源治郎(義兄)を訪ね、義兄の推薦で臨時会 津藩士に採用となり、京都で覚馬が開いていた洋学校で学ぶことになった経緯がある。

1968年、「鳥羽・伏見の戦い」が始まり、薩摩藩兵に捕縛され、覚馬と同じ京都の薩摩 藩邸に幽閉されたのである。この時に、覚馬の建白書(管見)を口述筆記したのが「野 沢鶏一」である。

1870年、大阪開成所へ入所。

1871年脩文館で学ぶ。「大同団結運動」を提唱した「星亨」と親交を持ち、星とともに 『英国法律全書』の翻訳を手がけわが国における法整備の先駆的業績でも知られている。

1871年、星の推薦で大蔵省に入り、税関職員長などを歴任。

1874年、弁護士となり、渡米してアメリカのエ−ル大学で法律学を学んだ。帰国後、星亨の義妹を妻に迎え、星の政治活動を支えた。

1882年、自由民権運動激化事件の一つである「福島・喜多方事件」を星亨らとともに弁護活動で活躍。1889年には、再度渡米してニュ−ヘブン法科大学で学ぶ。 

 帰国後、神戸地裁判事となり、公証人事務所(役場)を開設した。

 

8.管見提出後の覚馬と鶏一の動向

 なお「野沢鶏一」は、薩摩藩に師である山本覚馬とともに幽閉された時、17歳であったが、覚馬の口述筆記を行い、一句ずつ書きとめ、読み聞かせて訂正させ、一ヶ月かけて建白書(管見)を完成させ、新政府宛へ提出した。これを読んだ西郷隆盛や岩倉具視等は、その内容に敬服し、覚馬の口述書(管見)を書き綴ったという。鶏一は、戊辰戦争後、大赦により覚馬とともに釈放された。前掲の略年譜を見れば明らかであるが、「鶏一」は師「覚馬」の教えである「見聞」を良く学び、各方面で活躍する大人物に成長する。覚馬は、釈放後、その「管見」で述べた知識が認められ、新政府にも重視されて京都府大参事(副知事相当職)に請われて京都府の顧問となり、京都府の新しい施政に貢献することとなる。また明治8年には、新島襄及びデ−ビス博士とともに同志社を創設し、襄の没後は同志社の総長にもなった。また、京都府の初代府議会議長を務めた。野口鶏一も覚馬の弟子の一人として同志社大学の支援や交流にも尽力したという。

 

 

 9.覚馬を世話した少女「小田時榮」

 山本覚馬の世話をしていた少女は、小田時榮といい、薩摩藩の許可を得て、幽閉中も覚馬の世話を続けた。「管見」を読んだ西郷隆盛や小松帯刀らは、覚馬の才能を認め、幽閉中の覚馬に酒などを差し入れて、さらに優遇したという。しかし、覚馬は、幽閉中に完全に失明したうえに、脊髄を痛め、足も不自由になってしまうのである。このような覚馬を懸命に世話し続けた「時榮」は、後に覚馬の愛人となり2番目の妻となった人物である。

 小田時榮が、覚馬の世話をするようになった経緯は、山本覚馬の失明と深い関係がある。覚馬の視力低下は「蛤御門の変で目を負傷したからとも」、「鉄砲や大砲を撃つときの硝煙で目を痛めたと」もいわれているが諸説有り定かではない。会津藩では、蛤御門の変で山本覚馬の大砲隊が大活躍したことなどから、戦における洋式銃の有効性を認めはじめ、覚馬に洋式銃の調達を命じた。この時、銃の調達に長崎に出向いた覚馬は、医師ボ−ドインに診察を受けたところ、失明は時間の問題と告げられた。覚馬は京都に戻っても戦線復帰もならず失意の中にあった。これを心配した小田勝太郎が13歳の妹、小田時榮に覚馬の世話を命じたのである。このような経緯から時榮は、覚馬の世話をするようになったのである。1869年(明治2年)に戊辰戦争が終結し、覚馬は幽閉を解かれ釈放された。そして、京都で小田時榮と同棲を始める。覚馬42歳、時榮16歳であった。1871年(明治4年)覚馬は、新門辰五郎の京都滞在中の豪邸へ時榮とともに引っ越している。187110月、この新居に覚馬の妹「山本八重」(この時26歳)が母の「山本佐久」と覚馬の娘「山本みね」とともに兄の覚馬を頼って京都へ来たとき、覚馬は、18歳の小田時榮と暮らしていたという。会津に残してきた覚馬の妻「山本うら」は、京都に来ず覚馬との離婚を望んで会津に残った。なぜ「山本うら」が会津に残り離婚を望んだのかこの件に関する資料がないので定かではないが、一説には、「覚馬が京都で愛人と暮らしているという噂を耳にしたため離婚を決意し会津に残った」ともいう。また、1871年「小田時榮」は、覚馬との子どもである「小田久栄」を出産している。八重の京都来訪と久栄の誕生との時間的な前後関係は不明であるが、どちらも1871年のことあることは確実である。

 

10.「小田時榮」の不倫騒動−黒い目と茶色の目』(自伝的小説)の内容は「虚構か真実か−」

 覚馬は、会津に残った妻「うら」と離婚し、小田時榮と結婚した。二人はキリスト教の洗礼を受けたという。山本覚馬57歳、小田時榮31歳であった。1885年(明治18年)結婚して間もなく、時榮が体調を崩したということで、医師ジョン・カッティング・ベリ−に往診してもらった時、帰り際のジョンが玄関口で「おめでとうございます。妊娠5カ月です。」と告げられた。「身に覚えが無い」覚馬はおおいに驚いた。覚馬は、時榮に不倫相手を問いただすと覚馬らが同志社英学校に入学させるために会津から招いた18歳の青年の名前を口にした。こうして、時榮の不倫が発覚したのである。覚馬は、長年自分の世話をしてくれた時榮を許した。親族の間でもこの不祥事を問題となったが覚馬が許したことで穏便に収束するはずであった。しかし、覚馬の妹八重は許すことを承知せず「臭いものに蓋をしてはいけない」と主張、覚馬の娘山本みねとともに時榮の不倫を糾弾して、ついには、山本家から追い出してしまった。時榮は、1886219日に覚馬と正式に離婚した。時榮が生んだ小田久栄は、覚馬に引き取られた。八重は、久栄が時榮に会うことを禁じたという。この小田時榮の不倫譚の出典は徳富健次郎(徳富蘆花)の『黒い目と茶色の目』(自伝的小説)である。山本家親族からの伝聞をネタとして書いており、時榮の不倫譚がどこまで真実なのかわからない。徳冨蘇峰や徳富蘆花の兄弟は、平気で歴史的事実をねじ曲げ、個人を中傷し、貶めて人気を得るとんでもない小説家である。例えば、会津の山川大蔵の妹で大山巌の後妻となった大山(山川)捨松についても大山巌の連れ子「信子」の結核闘病中の対応を『不如帰』等で悪意に満ちた偏見と捏造を重ねて発表しており、どこまでが真実で有り、どこが虚構なのか判然としない。捨松は、『不如帰』発表後、世間から誤解を受け、大変つらい思いをしたという。新島八重についても「鵺(ぬえ)」などと中傷している。このような経緯から時榮の不倫相手とされた青年についても出自を調査すると不明な部分が多く、信憑性が疑われる部分も多いこともまた事実である。しかし、時榮が何らかの不祥事を起こし、覚馬と離婚し、山本家を去ったことは事実である。その後の小田時榮の動静は不明であるが、東京へ行ったとも、アメリカへ渡ったとも言う。『管見』を建白し、会津でも人気の山本覚馬であるが、彼もまたご多分に漏れず「どろどろした人間関係」の中で生き抜いた人物であったことが理解できる。それにしても、「覚馬」も先妻「山本うら」も後妻「小田時榮」もその心情を察するに何か「もの悲しい」ものを感じる。山本家を去らなければならなかった「小田時榮の不祥事」が何であったのか。真実は、漆黒の歴史の闇に閉ざされて誰にもわからない。 

                                2013.6.24 了